赤いてぬぐい。
それは、帰り道のこと。
近代化の波が押し寄せる建物に挟まれぽつんと立っていた。
古びた大きな煙突、年季の入った、大きく「湯」と書かれた簾。
…銭湯だ。
まだこんなものがあったのかと思う。
ふと、古い歌を思い出した。
そして、しばし考えると、その銭湯に向かった。
一週間後。
またこの日が来てしまった。
カラカラとすでに定番になってしまった、キャリーケースを
引きずりながらゆっくりと、重い足取りでそこへ向かう。
思い返せば、半年前、学生の就職が超氷河期と言われる中で、なんとか
希望していた出版社に事務として採用されて、働き初めてしばらく
たった頃だった。
担当をしている社員からの電話で、なんでも大事な書類を忘れたらしく
至急届けて欲しいというのだ。編集長である女性に相談したところ
少し迷った末、まあ、届けるだけだからと自分が行くことになったのだ。
その時に、彼女が言った事を忠実に守っていればこんなことには
なってなかったのだが・…。
「いいこと、ラス。絶対に、中に入っちゃダメよ!お手伝いの女の子がいるから、
その子に預けるなり、彼を呼んでもらって渡すなりしなさいね。絶対よ!」
しかし、行ってみたら、いくらチャイムを押しても誰も出てこない。
仕方がないので、担当の社員の携帯に電話をかけると何回かの呼び出し音の後、相手が………出た。
ただ、その相手は、社員ではなかったのだ。
書類を届けに来た旨を伝えると、鍵を開けるから入って来いというのだ。そこまで言われては
入らない訳にはいかない。あの社員はどうしたのだろう?と内心疑問に思いつつゆっくりと足を踏み入れた。
広い庭のようなところの真中にある小道を抜け、やがて大きな玄関の前までやってくる。
先ほどの相手が言っていた通り鍵は開いていた。
「ごめんください…」
と恐る恐る中に入った。
広い玄関には、誰もいない。
「あの…すいませんっ!」
大きな声でそう叫ぶと、二階の方から声がした。
「二階にいるから。」
そう言われたので、恐る恐る二階に上がっていった。
奥の一室の扉が微妙に開いている。
人の気配がするから、きっとあそこだろうと思ってその前に立つと軽くノックをした。
すると中から一人の青年が現れた。
深紅の髪と瞳をした美貌の青年。眼鏡になぜか着流し。
……西洋風の家に着流しが不釣合いなのだが、この青年がすることで
別に違和感を感じなかった。
「お前は?」
「あ、はい、うちの社員から頼まれた書類を届けに来たんですけど・…あの…」
「ああ。あいつのところの。」
「あの…」
「ああ、あいつなら、そこにいるぞ。」
ふと見ると、社員の青年が、長椅子の上で爆睡していた。
「…参考資料に必要になって、昨日頼んだんだ。ひとつどうだ?」
そう言って差し出すのはお菓子の箱。
確かこのお菓子は、北の方に行かないと手に入らないのでは…。
そんなことを編集長から聞いたことがあった。
・・…じゃあ、彼は、昨日わざわざそこまで行ってきたんだ…。
ぞくっと冷たいものが背筋を滑り落ちる。
「い、いえ・・・・私は甘いものが苦手ですので。」
出かける前の上司の言葉が頭を過る。早くここを離れようそう思って、
ぎゅっと握り締めた書類を手渡す。
「あ、あの、これが書類です。」
「ああ、これか。すまなかったな。」
「で、では、私はこれでっ。」
一礼して、慌ててその部屋を飛び出した。
それで終わると思ったのだが…次の日の朝一番に、編集長に呼び出された。
「……ラス、あれほど言ったのに・…」
「・……はい?」
「今日から、あなたがあの闇主先生の担当になったから。向こうからの直々の御指名よ…。」
「闇主先生・…って、もしかして、あの小説家の?」
作品は読んだ事あるが、その他のことは知らなかった。
出版社に勤めてるといっても、自分がやっている仕事というのはこの編集部の経理兼事務だ。
「昨日、あなたが書類を届けたのが、その闇主先生なのよ…。」
「はあ。」
「で、あなたのことが非常に気に入ったから、彼の代わりに担当にしてくれと…。
こうなることは予想できたから…だから、出来るだけあなたには関わらないようにしてたんだけどね。
ラス、本当に申し訳ないけど頼むわね…。まあ、あなたには、彼みたいなことはさせない…と思うけど…。」
こうして、先生の担当となって早半年。確かに、前担当者のような・・・・・・・ことはなかったが・・・・・・。
違った意味で苦労することに・・・・なったのだ。
例えば、一つがこのキャリーケース。
普通に自宅に居てくれていたら、30分もしないで終わることなのだが如何せん、ただでは済まない。
この半年の間、原稿を貰いに行っても、まともに、家にいた試しがない。
大体がどこかに行ってしまっている……まあ、行き先だけはお手伝いの少女に
告げて言ってくれるだけまし…なのだが。大抵は、そのまま後を追っかけて短くて一泊二日。最悪1週間。
レンタルビデオじゃあるまいし…なのだが…このように帰れないのだ。
だからすぐに対応できるように、彼の元へ行く時は、ノートパソコンを初め着替え洗面用具等などを
入れているのだ。
果たして今日はどうだろう。どきどきとする鼓動を押さえつつインターホンを押した。
ぴんぽーん。
その音の後に、鈴を鳴らしたような声がする。
「はい、どちら様ですか?」
「浮城社のラエスリールですが、先生はいらっしゃいますか?」
「あ、ラエスリール様。今開けますね。」
全自動の柵が開く。
中に入ると、可愛らしい少女が向かえてくれる。この屋敷の唯一の
使用人である内梨だった。
「お待ちしておりました。今日は、主はちゃんといますよ。先ほどからラエスリール様は
まだかまだかとお尋ねになってましたから。」
とにっこりと微笑む。
「……はあ。」
「主は二階ですよ。」
にっこりと微笑む彼女の言葉に促されて、二階へと上がる。いつもの書斎に行くと、
やっぱりいつものように眼鏡と着流しを青年が立っている…はずだった。
・………あれ?
そこにいたのは、ナゼか黒いセーターにジーンズ姿の青年だった。
「・・…先生?」
「ああ、ラス。よく来たな。」
それは、今日は原稿を貰いに来る日だから。
「・…今日は、どうかしたんですか?」
「・……実は、ラスにどうしても協力して欲しい事があるんだ。」
「・……………はい?」
そう言うと、どこからともなく、ふんわりとした淡いブルーのセーターと濃いベージュのスカート
(少し短めな気がするのは気のせいだろう)と濃いコートの一式を渡される。
「…これは一体?」
「実は・…今書いている連載に詰まったから、実際にやってみようと思ってな。
これを着て、今からちょっと付き合ってもらいたいんだ。」
「これを着て?……それよりも、連載って?!」
「今日お前に渡す・・・原稿のだ。」
それは、非常に困る。最悪でも明後日には入稿しなくては間に合わない。
………しかし、今日はいったい何をさせるつもりだろう…?
不安は募るが、結局のところ担当者の悲しいところで、なんとしても書いてもらわなければならない。
「…わかりました。」
そう言って、服を受け取ると、内梨に案内された別の部屋で着替えた。
着替え終わると、言われた通りに玄関に行く。すると同じくコートを
着た青年が立っていた。
手には、ナゼかお風呂セットの入った風呂桶とを持って。
ますます疑問が深まった。
「あ、ラエスリール様、よくお似合いですわーvスーツではきりっとしてもちろんお美しいですけど、
その格好ですととっても可愛らしい感じがしますわ。」
内梨の言葉に慌てて首を振る。
「そ、そんな、私は美しくも可愛らしくもないから!」
「またまた。」
にこにこと微笑む内梨に、青年がごほんと咳払いをする。
「あらあら、すいません。お待ちかねのようなので、はい、こちらはラエスリール様の分です。」
と言ってやはりお風呂セットの入った風呂桶を渡された。
「行くぞ。」
青年の声に慌てて用意された靴を履く。
そして、内梨に見送られながら先に出てしまった青年を追いかけた、
※※※
てくてくと並んで歩く。
「あの…先生?」
「ああ、言い忘れていた。先生はやめてくれ。闇主と呼んでくれ。それから敬語もだ。」
「え、でも…。」
「いいから。」
……これも、先生がいうところの演出というものだろう。
少し躊躇したが…
「わ、わかった。…あ、闇主・・」
そう言うと、相手は満足げににっこり微笑んだ。
その笑顔を見た瞬間、どきっとした。
頬が熱くなる。
ふ、ふいに笑顔を見せられたから吃驚したんだ。
きっと、そうなんだ。
※※※
しばらく行くと、古びた銭湯の前にやって来た。
「・……ここ…か?」
「ああ。」
お風呂セットを持たされたときから予想はしていたが、
一体なぜ古びた銭湯に・…?
そうこうしているうちに、手を引かれ暖簾をくぐる。
中には、男湯 女湯と書かれた暖簾がそれぞれの入り口にかかっていた。ますます相手の意図がわからない。
理由を聞こうと口を開こうとしたが、それよりも素早く相手が、
「とりあえず、1時間後に外の銭湯の前で待ち合わせだからな。」
と言うと相手は男湯の暖簾をくぐって行ってしまった。
とりあえず、女湯と書かれた暖簾をくぐる。
実は、銭湯というものに来るのは初めてだった。建前上しぶしぶとしていたが
内心はわくわくして仕方がなかったのだ。
番台に座る年老いた女性にお金を払うと中に進んだ。
広い脱衣所は、その広さとは対照的に人一人見当たらない。
適当にロッカーを選ぶと衣服を脱ぎ、脱いだ服と着替えと貴重品を入れ
鍵をしめるとそのまま大浴場へ向かった。
大浴場に入ってみたがやはり人はいない。つまりこの広い空間を
一人占めしているのだ。なんだか嬉しくなって髪と体を洗うと、広い湯船につかる。
その心地よい温もりに気分が解れてきた。
ゆっくりと温もって風呂から上がって身支度をしたところでところで時計を見るがまだ15分ほど残っていた。
ふと、脱衣所を見まわすと、年代モノらしいマッサージ機があった。
思わず近づいてみる。
一回20円
どんなものだろう。好奇心がむくむくとしてくる。
まだ時間もあるし。
そして、お財布から10円玉2枚取り出すとマッサージ機に座り、と入り口のところにそれを入れた。
ちゃりんちゃりんと二回音がした後、しばらくして、うぃーんと鈍い音がした。
背中をゆっくりと移動するそれにびくりとする。でも、それがなんだか
心地よくなってきた。
すると、どこか遠くで歌が聞こえてきた。
…古い歌だ。
昔、母さまが口ずさんでたっけ…。
確か、男の人と女の人がやっぱりこういう感じの銭湯に行って…女の人が先に出てるんだけど…
…?
まてよ?
…ま、まさか…?
慌てて椅子から飛びあがると、ロッカーから荷物を掻き集め外に出た。
すると、予想通り青年が…いた。
「ラス。早かったな。」
「……ああ。」
「俺も丁度今出たところだ。」
…一目で嘘だとわかる。思わずすっと髪に触れる。
冷たい。
「か、風邪でも引いたらどうする気だ!!」
寒い中、早風呂で髪も乾かずにいるなんてどうかしてる。
…いくら歌の文句に合わせたといったとしても。
「あ、そうか風邪引いたら原稿が・…」
「そんなことじゃないっ!私はっ、闇主がっ…!!」
自分でも思っても見なかった言葉にはっとする。
そんな自分をにやにやと見つめる眼鏡の越しの深紅の瞳。
「俺のこと心配してくれたんだな。有難う、ラス。」
そう言うと持っていた赤いマフラーを自分の首に巻いてきた。
…歌でいうところの赤いてぬぐいのことだろうって
「今、風邪を引くっていったのに、どうして?!」
「俺は、ラスが風邪を引いたらいやだからな。」
闇主が巻いてくれたマフラーを慌てて外すとつき返す。
「私は、今出たばかりだから大丈夫だ。だから闇主っ」
「…そんなこと言って、前に温泉で湯冷めして熱出して倒れたのは誰だ?」
「あ、あれは…」
あわあわとする自分に青年は何か思いついたようににっと笑みを浮かべた。
「そうだな…じゃあ、こうしよう。」
そう言って、彼は、まず首にマフラーを巻き、そしてそのままマフラーを自分の首に巻いてきた。
「これで大丈夫だろう?」
確かに。
…………でもまてよ。こうしたら……
マフラーの長さの関係上ぴったりと寄り添わなくてはならない。
・・…恋人同士じゃあるまいし。
あくまで、闇主、いや先生の小説の話なのに。
なのに、なのに、どきんと心臓の音が大きなり、再び顔が火照ってくる。
どぎまぎしてると、相手がきゅっと手を握ってきた。
「ほーら、出たばっかりって言ってたのに、こんなに冷たくなって。」
心臓の音がさらに激しくなって相手の言葉が上手く耳に入らない。
変だ。
何か変だ。
単に、このシチュエーションにただ酔ってるだけ……なのか?
それとも……?
どう帰ったのか上手く覚えてないのだが、気がつくと闇主の家の玄関に
立っていた。もちろん、内梨が来る前に繋いでいた手とマフラーを外したにも関わらず、
未だどきどきは治まってくれそうにもなかった。
唐突に始まりましたが、作家さんと編集者さんです(笑)。
編集者ラスさまは、スーツ、そして作家闇主さんは眼鏡です(笑)。
文中に出てくる古い歌は、わかる方は分かったかもですが、あれです。「神田川」です(笑)。
ではではおつきあい有難うございましたm(__)m
2004/12/24