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「おはようございます、社長」 46階もあるビルの1階。フロントの前で彼女はそう言って頭を下げた。 時刻は午前10時を回っている。 ごくごく普通に社長出勤をしながら、高級外車で彼は現れた。 ビルに入ってきたのは、深紅の髪と同じく深紅の瞳をした青年。 「おはよう、ラエスリール」 顔を上げると彼が常に浮かべる余裕の笑みがあった。 今日の彼は紺色のスーツとやや暗めの赤いネクタイをしている。 いつもながらびしっとしたその姿は、わずか数年、片手で足りるほどの年数でこの会社を一流にのし上げた人間に相応しいと言えよう。 そんな彼の秘書を務めて、はや半年経つラエスリール。 彼女も彼女で薄い桃色の、ややスカートの丈が短いスーツ――補足だが、これは社長命令(社長の趣味とも言う)――にきちっと身を包んでいた。 普段からそのように身形を整えている彼女は当然の事ながら人目を引く。 だが、彼女自身、人からどう見られているのかまったく分かっていない。 時折すれ違う社員が彼女をじっと見ていることがあるのだが、その視線の意味がさっぱり理解不能だ。 もう一つ、彼女には分からない事があった。 それは何故自分が秘書になれたのかという事だ。 もともと口下手な彼女は、緊張も加わり、この会社で行われた秘書の採用試験で、 面接・実技ともどもしっかりと対応するどころか話すことさえ出来なかった。 しかし後日、自分よりもよほど上手にできた人を押し退けて、何故か自分に採用の電話がかかった。 (絶対無理だと思ったんだがな……) 不思議には思っているが、採用された以上、仕事をしなくてはいけない。 秘書の仕事はけっこう忙しい。 仕事に忙殺される内にその疑問も頭のどこかに追いやられていた。 けれどふとした拍子に思い出すことがある。 なんで自分だったのか。 彼女はその真相を知らない。 眼鏡越しに自分の秘書を見るのは闇主と言う名の青年だった。 引き締まった顔で指定したスーツを着て、髪を結い上げている彼女を満足そうに見ている。 彼女を初めて見たのは、秘書の採用試験の時だった。 いくら面倒でも自分の秘書の面接ぐらいには出てくれ、と部下にせがまれて出た面接で彼女に出会った。 その瞬間のことは忘れられない。 目を奪われた。 ややきつい面立ち。 琥珀と、自分と同じ深紅の色違いの双眸。 真っ直ぐな――触れればきっと触り心地の良いだろう――黒い髪。 透けるような白い肌。 均整の取れた体躯。 ぞくぞくした。 欲しいと思った。 この娘こそ自分の隣に相応しいと思った。 そんな風に女を見たのは、初めてだった。 目が合い、娘の顔を正面から見た時。 それだけで捕えられた。 視線が絡まっただけなのに。 心酔している事を自覚したら、あとはもう、ただ飢えを満たしたくなった。 何が何でも手に入れたくなった。 だから実技などの結果は散々だったが、採用した。 部下の忠告など構うものか。 彼女が手に入るのなら、試験の結果などどうでもいい。 実際のところ、仕事はちゃんとやっている。 偶に足りない部分はあるものの、さして気になるようなところでもない。 そんなミスは気にならない。 そう思わせるだけの魅力が彼女にあった。 「今日も綺麗だな」 闇主のその言葉に、ラエスリールはやや頬を赤くする。 毎朝会うたびにそう言われるが、どうも慣れない。 そもそも、男性とあまり接点がなかったからかもしれない。 小学校こそ共学だったが、過保護な家族――主に父親と弟――の勧めで中学・高校と女子校に通っていた。 高校卒業後も短大に進んだので、結果として彼女は8年ばかり男っ気のないところで育った事になる。 そんな経歴の持ち主なので、短大卒業後すぐに就職した先でこんな美麗な社長に「綺麗」と言われてもどう返せばいいのか分からない。 ただ頬を赤くして軽く俯くしか出来なかった。 ラエスリールが男性に免疫がない事を熟知している闇主は、見ている分には初々しいその態度にまた、そそられるものがあったりした。 教えてやりたい、と。 その体に教えてみたい、と。 女としての悦びを刻み付けてみたい、と。 クツッと彼は軽く嗤う。 いい加減、待ちくたびれた。 この半年間、ずっと耐えてきたのだ。 もう、いい頃合なんじゃないか? 自分のこの焦がれる想いを、教えるには。 と、一人勝手に決意する。 もちろん、そんなことは顔に出さない。 すました顔で彼女に近付く。 「とりあえず部屋に行く」 「はい」 彼女が自分の斜め後ろを歩くのを感じながら、エレベーターのボタンを押した。 行く先は46階。 社長室。 「ラエスリール、この後の予定は?」 時刻は夕方4時過ぎ。 オレンジの陽光が窓から差し込む中、彼は訊いた。 「あ、はい……明日の朝、北海道の方へ行かなくてはならないので、飛行機などの時間の関係上、近くのホテルに泊まって頂くことに……」 「そうだったな…………お前も泊まるのか?」 「はい……そうですが………………?」 闇主は机に肘を突き手を組み、彼女を見ている。 レンズの奥に隠れた深紅の瞳が、この日最後の太陽の光を浴びて妖しく輝く。 その視線に、胸が高鳴った。 ドキドキする。 最近気付いたが、時折彼はこういった視線を投げてくる。 まるで獣のような瞳で。 怖い、と感じるのと共に逆に近付きたいとも思うその視線。 何か意味があるのだろうかと彼女は思案する。 すっと闇主は立ち上がった。 横からの光を浴びる彼。 オレンジの光と、その反対側の黒い影。 ざわざわする。 彼が身に纏う深紅が、一層艶やかさを増している。 心臓の音が更に高くなる。 顔が熱くなる。 訳も分からず彼女は、目を逸らす事も出来ないまま立ち尽くした。 やがて、彼女の真正面で青年は立ち止まる。 「社長……?」 ただならぬものを感じ、じりっと下がる。 「……社長と秘書が仕事をしていく上で一番大切なのは何だと思う?」 「え? ……えと、その」 「呼吸だよ。何も言わずとも息が合うぐらい、互いの事を知っておく必要がある」 その言葉に、思わずラエスリールは下唇を噛む。 自分はまだまだ半人前だ。 彼に言ってもらうまで、彼が何を欲しているのか未だに分からない。 チクッと胸が痛くなった。 自分がまだまだな事を突きつけられた。 じんわりと目に涙が浮かぶ。 それを見て、闇主がククッと笑う。 「俺たちは、もっと互いを知るべきだと思わないか?」 ぐいっと腰を抱き、彼女の柔らかな唇に指を這わせる。 彼女の瞳が震えた。 頬が朱に染まる。 その対応一つ一つが、彼を駆り立てる。 もっと見たい。 声を聞きたい。 知らないお前を見てみたい。 様々な欲望が生まれてくる。 ただ傍にいるだけで。 抱き寄せられ、ラエスリールは自分の体が火照っていくのを感じた。 熱い。 間近に彼の体温を感じる。 鼓動の音はますます激しくなり、相手にも伝わっているのではないかと思う。 そう思い、更にドキドキする。 西日の角度は刻々と変化する。 ゆっくりと暗くなるにつれて、彼の纏う色彩がまた違う姿を見せる。 闇に浮かび上がってくる、その深紅。 仄かに輝くその色。 どうしよう。 こんな時、どうすればいいのだろうか。 世間一般の箱入り娘以上に箱入り娘に育てられたラエスリールは困惑する。 「どうなんだ?」 答えを催促され、ラエスリールは知らず闇主の服を掴んでいた。 一瞬たりとも視線を外さない。 いや、外せない。 その深紅に魅入っていた。 「……思い、ます」 途切れ途切れに言われたその返事を受け、闇主は口の端をあげた。 「なら、ラエスリール。今夜教えてやるよ……………俺の事をお前に。だから」 お前の全てを俺に教えてくれ。 そう言って、彼は彼女の頬に軽くキスをした。 柔らかいその感触に、ラエスリールは一気に耳まで赤くなる。 触れられた所を手で隠す。 クツクツと闇主は笑う。 「じゃあ、先に下で待ってる」 静かに彼女から離れると、闇主はドアの向こうに消えた。 何も言えず、何も出来ずに彼女はその場に立ち尽くした。 心臓がバクバクする。 破裂しそうだ。 顔が熱い。 体が熱い。 疑問符が頭を埋め尽くす。 思考が付いていけない。 あまりの事に目を閉じた。 夜が訪れる少し前。 部屋は薄闇に満たされていた。 会社から車で移動する事、30分。 時刻は夜8時過ぎ。 都内某所の高級ホテルの最上階に、彼女はいた。 「だから仕事なんだ………うん、うん……そう、明日も泊まりだけど……うん…………明後日は必ず帰るから…………じゃあ頼んだぞ?」 ピッと携帯電話を切る。 ふうっとラエスリールは溜め息を吐いた。 夕食を取り、部屋でシャワーを浴びた彼女は、開襟のシャツと今日のスーツのスカートを着ている。 ぽふっとベッドに腰を下ろす。 明日は飛行機で北海道まで行かなくてはならない。 あの社長と2人きりで。 (2人きり、か……) 考えてみたら2人きり、というのもあまりなかった気がする。 会社の中では彼の馴染みの部下がちょこちょこ顔を出すし。 出張の場合も、誰かがついてくることが多い。 別の会社――国内外を問わず――の社長との会談などがある時は自分だけではカバーしきれない為、絶対に自分以外の誰かが一緒だ。 でも、明日は2人きり。 空港までは運転手もいるから3人だが。 飛行機に乗ってしまえば、もう2人だけだ。 急にドキドキしてきて頬に手を当てる。 彼が唇で触れた場所。 あの瞬間を思い出すだけで、顔が熱くなる。 何か。 自分の知らない何かが分かりそうだった。 何だったのだろうか。 温かいような、怖いような。 うーん、と彼女が考えていると、部屋の電話が鳴った。 ガチャッと受話器を取る。 「はい。何でしょうか?」 「俺だ」 闇主だった。 「社長?」 「今から俺の部屋に来い」 「え、あの……?」 「教えてやるって言ったろ? じゃあ、待ってるからな」 それだけ言うと彼は勝手に電話を切った。 確かに「教えてやる」とは聞いていたが。 それも今夜。 「今から、か……?」 夕食の時、何も言わなかったのに。 急に来いと言われても。 とりあえず受話器を置いて、服装を見直した。 こんな姿で行っていいものだろうか。 シャツはスカートの上に出ているし、ストッキングも穿いてない。 髪もまだ多少濡れている。 どうしようか。 でも待たせるのも……。 ひとまずシャツをスカートの中にしまい、上着を着て、鍵を持って部屋を出た。 彼の部屋は自分の隣の部屋だ。 ホテルのふかふかの絨毯が、なんとも歩きづらい。 それもそのはず。 この階にある部屋はスイートルームだ。 (確か、一泊十万は超えていたよな……) 手配したのは自分だが、いつも彼が泊まるだけで自分はここに来たことがない。 その為、ここがどんな風になっているのかは今日初めて知った。 (何もこんなにフカフカでなくてもいい気が……) しょせん、一般庶民の自分には馴染みにくい柔らかさだ。 隣の部屋までそんなに歩くわけでもないからあまり苦労はしないが。 ラエスリールはドアの前で軽く息を整えた。 コンコン、とドアを叩く。 『ラエスリールか?』 部屋の主の声が聞こえた。 「はい……」 返事をすると間もなくドアが開けられる。 ラエスリールはドアの向こうに立っていた闇主の姿を見て、頬を染めた。 外に出されているシャツのボタンは上から1つどころか3つも空いていて、彼の胸板が見えた。 ネクタイはしていず、ただズボンとシャツだけ。 普段の彼とまるで違った。 唯一同じなのは、眼鏡をかけているぐらいだろうか。 それでもその奥にある瞳には、まだ見慣れない光が宿っている。 あの、獣のような鋭い光。 「入れ」 「は、はい」 促され、ラエスリールが部屋に入る。 パタン、とドアが閉まった。 中に入ってみると、部屋の造りは当たり前と言えば当たり前だが、ラエスリールの所と同じ造りだ。 何か違うとするならば、テーブルの上にワインがあるぐらいだろうか。 (飲んでいたのか?) あまりそういう風には見えない。 だが、グラスに微かに残る赤い液体を見る限り、やはり飲んでいたのだろう。 酔っても顔に出ない体質なのだろうか。 「何かあったか?」 後方からクスクスと笑い声が聞こえてドキッとする。 そっと、肩に手が置かれた。 「ラエスリール?」 低い声音は心に響く。 聞き惚れてしまいそうなほどの美声。 これほどの美しい音が世の中にあるだろうかと思えるような、それ。 ぎゅっと目を瞑った。 心の底から溢れてくる何かに流されそうになって。 「まあ、座れ」 軽く押されて、ラエスリールは一人がけの椅子に座る。 向かいの椅子に、夜景をバッグに彼が座る。 部屋の明かりはほんのりとランプが照らす程度。 何故か蛍光灯はついていなかった。 真向かいにいる彼。 まただ。 あの獣の瞳。 じっくりと自分を見るそれに、居心地の悪さと、何かむずむずと疼く不可解さがこみ上げる。 「飲むか?」 顎でワインを指しながら彼は言う。 ラエスリールは迷う。 付き合いというものがある。 飲んだ方がいいのだろうか。 それとも飲まなくてもいいのだろうか。 そんな彼女を見て闇主は言う。 「別にどっちだって構わない。飲みたければ飲めばいい」 「………じゃあ、少しだけ」 言われて、闇主はテーブルの上にあったグラスを手に取り、ワインを少し注ぐ。 「ほら」 彼はグラスを彼女の方に差し出す。 先ほどまで、微かにワインの残っていた、そのグラスを。 「あの……」 「飲むんだろ?」 ニヤッと闇主は笑う。 ラエスリールは彼の手からグラスを受け取った。 その骨ばった大きな手に触れた時はあまりに自分の手と違うので思わず少し手を引っ込めたが、それでも受け取った。 揺れる赤い液体を見つめる。 「どうした?」 飲むんじゃなかったのか? その声に、顔を上げる。 薄暗い部屋の中。 闇に融けきらずに浮かび上がるその闇の色。 蠱惑的なその色。 見惚れてしまう。 ぼうっとそれを見ていたら、闇が動いた。 ハッとした時には既にもう、彼女の横にいる。 彼女のグラスを持つ白い手に自分の手を重ねている。 ラエスリールは赤くなった。 自分以外の人の体温を感じて。 何より、強い力を感じて。 その瞳に魅せられて。 「ラエスリール……」 名を呟くと、彼はグラスの赤い液体を口に含み、そのまま彼女に口付けた。 「……んっ…………」 重ねられた唇の隙間から、赤い液体が零れ落ちる。 つうっとそれが首を滑っていく。 彼女の着ていた白いシャツに、赤い染みが広がる。 こくん、と彼女の喉が動いた。 ことん、とグラスをテーブルに置く音がする。 含んでいた液体がなくなると、彼は舌をゆっくりと彼女の首筋に這わす。 零れた赤い液体の後を追いながら。 「あっ」 首筋から鎖骨を通って、胸元にきた時にラエスリールが声を上げる。 軽く肌を吸われた。 闇主が唇を離すとそこには、液体とは違う色をした赤い華が咲いていた。 いつの間にか、体が火照っている。 ワインの所為か? いや、違う。 何かもっと別の。 別の何か。 体の底から生まれてくる、違う熱。 彼女のその変化を知ったのか。 闇主はクツリと喉を鳴らす。 「知りたいのなら………時に踏み込む事も大事だ」 「踏み込む……?」 「そうだ」 彼の手はラエスリールの髪を梳く。 硬質の髪がさらさらと指から落ちて行く。 その感触。 それすら彼を駆り立てる要因になる。 「知りたいんだろう? 俺の事を」 「は、い………」 鋭さを増した瞳が、レンズ越しに自分を見ている。 見上げている。 背筋を何かが走る。 寒気に似ていて、でもやはり何か違う。 これは、違う。 何かを怖れている。 彼から感じる何かを恐れて。 なのに。 それでも、振り切れない自分がいる。 彼の手は自分の髪を梳きながら、もう片方で、しっかりと腰を抱いている。 不快感がある。 でも逃げたい反面、逃げたくない思いが交差する。 「だったら、踏み込んでみろ」 その声に、体が無意識に反応する。 恐る恐る両手を伸ばす。 指先で、彼の眼鏡をつまむ。 あの鋭いばかりの光が自分を射ている。 その中で、静かに彼女は彼の眼鏡を外そうとした。 何故かは理解できなかった。 ただ、レンズ越しに見られるのが、嫌だった。 見られるのならば、真っ直ぐに。 何も介さずに、見つめて欲しい。 眼鏡が完全に彼から取られ、彼女の手に落ち着く。 「あ……」 現れたのは、煌めく深紅。 今まで見ていたどれよりも強く深い、焦がれるような光を宿したそれ。 眼鏡という、自分と彼の瞳を隔てるものがなくなっただけで輝きを増すその色。 ビリビリする。 体中を何かが走った。 フッと闇主は笑うと、自分の頭より少し上にある眼鏡を彼女の手から取り戻し、無造作にテーブルにおいた。 「いいか?」 お前が望んだんだ。 彼は彼女の体の下に腕をいれ、抱き上げる。 体がいきなり宙に浮いた彼女は驚きと恐怖の入り混じった顔で彼を見た。 「……止めるんなら、今のうちだ」 窓の外、東の夜空の地平線との境目近くには、赤い三日月が浮かんでいた。 金庫室へ続く |
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ということで、加盟記念に碧様から頂きましたSSですvv社長さんと秘書様vもうこの設定ですでに 私はくらくらっとなりましたv半年、我慢しつづけた闇主さん、ついに行動を起こすようでv ワインのシーンもどきどきっとなりましたvvさあ、二人だけの長い夜が始まる~というところで、 続きは金庫室になります(笑)いぢわるでごめんなさい。続きの気になる方は、ぜひぜひ金庫室へどうぞv 後記担当 ちな 2004/02/13 |